2003年7月1日火曜日

グローバルリテラシー Think globally,Write locally 2003.7.X

僕の行きつけのスーパーでも
中国語や英語が飛び交うように
なってしまいました。
一番町の地下駐輪場には
中国語の案内板も出ています。

この前喫茶店で原稿を書いていたら
隣の学生風の若い男性が
日韓辞典片手にハングルで
書かれた文書を読んでいました。

何を言いたいのかというと
グローバル化は掛け声だけでなく
現実のものになってしまった
という事を言いたいわけです。
かつて人種のるつぼと言えば
ニューヨークの事でしたが
ある意味世界中がニューヨーク化
しているのかもしれません。

90年代以前はあらゆるメディアも
出版物も、国内の日本人は
みんな一緒だ、という前提の下に
編集されていたように思います。
そして外国人といえば
主に英語圏の白人の事を指していたようにも
思います。

僕もそうした文化状況で精神を形成して
きたので、これはエラいことになったな、と
最近思っています。
僕も含めて多くの日本人は、身近に
言語や文化の違う人がいる、という状況に
慣れていないので、こういった文化のごった煮
状況からある種の共通のルールを生み出して
いくにはあと10年はかかるのかな、と思って
しまいます。

このエッセイで何度も書いているような気がしますが
現在は過渡期で、ありとあらゆる分野がカオス状態に
あるので、僕は2010~2013年まではこの混乱が
続くのだ、と覚悟を決めてとりあえずの安定を
確保しています。
混乱しているのだ、と状況を認識できていれば
狂わずにすむような気します。

キン肉マン。
どうして突然キン肉マンか、と思われるかもしれ
ませんが、人種のるつぼの中で生きていく
グローバルリテラシーを考える上で
キン肉マンは結構重要な漫画だなと
今思ったわけです。
キン肉マンという漫画の中では、テリーマンと
いうアメリカの白人をステレオタイプ化した
キャラクター
ブロッケンマンというドイツのナチスを
ステレオ化したキャラクター
ラーメンマン(すごい名前ですね)という
中国のカンフーの使い手をステレオタイプ化した
キャラクターが出てきます。
ロビンマスクやミート君というキャラクターも
いました。
それは当時の日本の文化状況の中では
結構笑える漫画でしたが
国内の日本人はみんな一緒だ、という前提の
下にしか成り立たない漫画でもあるように
思います。
キン肉マンがヨーロッパに輸出された時
ブロッケンマンがナチスを連想させるという事で
物議をかもしたそうです。
ラーメンマンの額には、中、の文字が
入っていたような気もしますが
中国人が見たらちょっとがっかりするような
気がします。

昔、日本が誇る松田優作という俳優がいて
(探偵物語がリバイバルされてご存知の
方も多いかと思いますが)その松田優作が
ブラック・レインというハリウッド映画に
出演した時、なぜか日本が舞台のシーンで
大勢の人が道路いっぱいに自転車に乗って通勤していて
あ、この監督は中国と日本を取り違えている、と
日本人観客はがっかりしたそうです。

キン肉マンにしてブラック・レインにしても
そうですが、そういった異文化の
すれ違いというのは、結構重要な問題で
それは小説を書く上でも大事なことで
ちょっとした描写で、あ、この作者は分かっていないな、と思われるのが
とても怖いわけです。

表現に限らず、近所のスーパーで
中国語や英語が飛び交うようになってくると
日常的に異文化への想像力を持たなくては
ならなくなります。

僕が個人的に海外に行った時
フジヤマ、ゲイシャと言われても困りますし
韓国に行っていきなり侵略戦争云々、と
吹っかけられても困ります。
それと一緒で、これだけ日常的に
言語も文化も異なる人達と接する機会が
増えてきたら、異文化への想像力を
磨いておかないといけないな、と思って
いるわけです。

僕はこのエッセイで何度もアメリカ政府の
悪口を書いていますが
アメリカ人の悪口は書いていないつもりです。
それは僕が外国に行った時、日本人であるというだけで
不利益を被りたくないからです。

僕は政府というのは
近代国家にあってどの国の人も
背負わなくてはならない必要悪なのだ、と
考えているので、政府とその統治下に住む人々を
一緒くたに批判する方法は取りたくありません。
近代国家は必要悪だと思っています。
悪だけどないと困るもの。
その国が偏狭なナショナリズムに染まるとき
必ずマイノリティに属する人々が犠牲になるのは
歴史が証明しています。
ナチス下のユダヤ人しかり、戦後日本の
在日韓国人しかり。
僕はそういうのが怖いですし、とても嫌です。
僕が海外にいる時
反日運動が起きて、日本人であるというだけで
ものを投げつけられたりしても困ります。

でもどういうわけか広い宇宙の数ある一つ
蒼い地球の広い世界で
僕は大場理史という器に入り
日本の仙台市青葉区北山に住んで
小説家を目指しています。
その事がさしているのは
いやが応でも僕は近代国家日本を
背負わされているということ。

だから偏狭なナショナリズムを警戒しながらも
日本の小説を書くしかない。

Think globally,Act locally
グローバルに考え、ローカルに行動する、という
のは時代の必然のような気がしますが
物書きも
Think globally,Write locally
にならないといけないのかな、などと
最近思っています。

グローバルリテラシー
Think globally,Write locally