2003年7月1日火曜日

僕はソフトクリーム教の教祖であるぞ!? 2003.7.X 初出

しばらく前になりますが
福岡の死体遺棄事件でクローズアップされた
新興宗教の女性教祖が
押しかけた報道陣に対し
私は仏だぞ、私は仏だぞ、と叫んでいる
映像が流れた事がありました。
なんたる事だ、と思われた方も多かったと
思うのですが、僕も、なんたる事だ、と
思った一人でした。

いったい何がどうなって彼女は
私は仏だぞ、と思うように至ったのでしょうか。
今日はその辺を考えてみたいと思います。

精神病理学では
自分が仏である、とか
自分こそがイエスの生まれ変わりである、という妄想を
抱えてしまう症状を、メサイア・コンプレックス(救世主妄想)と
呼んでいるようです。
そして何故か、メサイア・コンプレックスの症状を発生する人の割合は、
日本で突出して多いとの事。
確かに新興宗教が雨後のタケノコのように
次々と出てくるという国は、日本しかないような気がします。
それは日本各地にある神社の造りと関係している
のではないか、と僕は最近睨んでいるのですが
それは今日の本題ではありません。

僕はそういった精神病理学をかじった事があったので
私は仏だぞ、私は仏だぞ、と押しかけた報道陣に対し
叫んでいる女性教祖を見て
あ、この人はメサイア・コンプレックスにかかって
いるかもしれないな、と思ったわけです。

実は僕もメサイア・コンプレックスを
発症しそうになった事があります。

三年程前の事です。
当時いた会社がずいぶんヒドイ会社で
週100時間労働が何ヶ月も続いていました。
(ちなみに法定は週40時間です)
労働基準監督署に訴えてやろうかな、と
毎日思いつめながらも僕は心身ともにフラフラの状態で
働いていたのですが、ある日ヘロヘロになりながら
電気のついていない一人暮らしのアパートに帰って
ソファーに倒れこんだ時、出てしまったのです。
見てはいけないものが。

なんと、ソフトクリームが部屋中を飛び回って
いたのです。

僕は始め何が起こっているのか理解できませんでした。
ソフトクリームが目の前で空中を旋回しているのです。
どうせネタだろう、と、読者の方は思われるかも
しれませんが、僕は確かにその時
部屋中を飛び回るソフトクリームを見たのです。
これはホントの話です。

そして僕は
やや、ついに来たか
ソフトクリームの神が僕に啓示を下したのだ、と
興奮しました。
僕は、ソフトクリーム教の教祖であるぞ! と。

でも精神病理学的には、その辺りが人間が精神的に
壊れてしまう一歩手前の状態のようです。
空中を旋回するソフトクリームを見ている自分を
客観視できるだけの知識を持っていたので
僕はメサイア・コンプレックスに陥らずに済みましたが
まかり間違えば僕も、TVカメラに向かって
僕はソフトクリーム教の教祖であるぞ!
僕はソフトクリーム教の教祖であるぞ!
と叫んで、人々を困惑させていたかもしれません。
危ないところでした。

伝統的な仏教においては
そういった人間が極限状態に追い込まれた時に
発生する幻覚・幻聴に対しても
厳しい戒めを持っているようです。

いわく、仏に会ったら仏を殺せ。

つまり激しい修行で
仏様や観音様の幻覚・幻聴が生じても
それらに惑わされてはいけない、と。
むしろ、幻覚で仏様が出現したら
その仏様をやりでつき殺せ、と
教えているようです。

人間が精神的、肉体的に追い込まれると
幻覚を生じる、などという事は常識中の常識で
そんな事くらいで自分が特別な人間になったとか
自分が仏になった、などとは思っては
いけないのだそうです。

伝統的な仏教の教えによれば
僕は部屋中を飛び回っているソフトクリームを
見た時、やや、ソフトクリームの神が僕に啓示を
下したのだ、などと興奮せずに
飛び回るソフトクリームを
平然とやりで突き殺さねば
ならなかった事になります。
ソフトクリームに会ったら
ソフトクリームを殺せ! です。

で、最初の話に戻るのですが
押しかけた報道陣に対し
私は仏だぞ、私は仏だぞ、と
叫んで人々を驚かせた女性教祖も
実は人知れず苦労が重なって
精神的、肉体的に追い込まれた挙句
仏様の幻覚を生じてメサイア・コンプレックスに
陥ってしまった哀れな一女性、と言えるのかも
しれません。あくまで僕も推測ですが。

青森県の恐山というところに
イタコ、と呼ばれる女性霊能者が
たくさんいるそうです。
そしてイタコになる人には不幸な女性が
多いらしいとの事。
昔は目の見えない女性がイタコになっていた
そうです。
そして先輩イタコについて激しい修行を積み
一人前のイタコになる。
その呼び寄せる霊が本物かどうかという問題は
さて置き、そういったプロセスやノウハウを
もっている世界では、メサイア・コンプレックスを
発症し、私は仏だぞ、と飛躍してしまう
人は出てこないような気がします。

伝統的な仏教にしても、青森のイタコにしても
沖縄のユタ・ノロにしても
昔の人はうまい具合に人間のもつ危険な面を処理して
社会に取り込んでいたのだな、と僕は感心してしまいます。
それとそういった知恵をなくしてしまった
近代以降の社会というのは、やはりもろいものなのかな、と、
あやうくソフトクリーム教を始めそうになった僕は思ったりするわけです。

これからも新興宗教が社会と摩擦を起こす、と
いう光景を何度も見せられる事になるのでしょう。

嗚呼、ナムサン、ナムサン……。




僕はソフトクリーム教の教祖であるぞ!?